大阪城と難波宮 (2026/11/6)

 

 

大阪城は、昔も昔、小学校の修学旅行で訪れた記憶はあるが、天守閣に上ったかどうかすら覚えていない。難波宮は高校の日本史でその名前はあったような気がするが、さりとてそれが何であったのか説明するだけの知識も残っていない。たまたま、ユーチューブでそれぞれの紹介を見たことが切っ掛けで出かけることにした。

 

大阪城

 

豊臣秀吉の時代の大阪城は1615年の大坂夏の陣の戦いで消滅し、その後1620年から1629年にかけて徳川秀忠(と家康)によって再建された。豊臣の城よりもっと大きく、立派な城を作ることで、徳川はその威光を世に知らしめようとした。徳川が再建した大阪城は江戸時代に何度か落雷で損傷しており、落雷で焼失した天守閣はわずか39年間しか存在しなかった。さらに、幕末の戊辰戦争のなか、城内の多くの櫓や門を焼失した。今ある天守は昭和に入ってから再建されたコンクリート製のレプリカである。

 

大阪城は江戸時代の落雷による火災、戊辰戦争、そして太平洋戦争中の空襲で多くの構造物を失った。残された遺構は限られるが、今も三つの櫓(多聞櫓、千貫櫓、乾櫓)が存在する。今年、これら三つの櫓の内部を春夏秋の土日祝日に限って特別公開しており、私は多門櫓と千貫櫓に入る機会を得た。

 

 

乾櫓

多門櫓の内部

千貫櫓の内部

発掘された豊臣大阪城時代の石垣

 

難波宮

 

私には難波宮についての知識がほとんど無かった。日本の古代史として、飛鳥時代、その後710年に奈良時代が始まり、やがて794年には平安京に遷都したという程度の認識にとどまる。確かに、大化の改新後に難波に都を作ったという話はおぼろげながら記憶にあるが、奈良時代に入って平安京から再び難波に都を移したことは知らなかった。調べてみると、天皇を巡る政治的な対立が原因という説もあるようだが、明確ではない。

 

難波宮の跡地は、大極殿基壇や八角形建物が遺構表示されるにとどまる。隣接する大阪歴史博物館には当時の様子を再現した展示物が常設されている。しかし、都であった期間がそれほど長くなかったこと、奈良や京都と異なり残された遺構が極めて少ないことから、展示物も限られる。うっかりと見過ごしてしまったが、博物館の地下には遺跡の一部が展示してある。遺跡の多くは発掘後、再び埋め戻したと説明がある。

 

 

舟形埴輪

宮廷儀礼の官人

同、女官

 

 

 

 

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